退官間近の研究職。研究室に山積みの「虎の子蔵書」。最適解を学生に学び、事なきを得た話。

十余年在籍した研究室を退官するにあたり、漠然と悠々自適な趣味の生活ばかりを思い描いてきたが、思いのほか生活を根本から見直さねばならなかった。それは経済的理由ではなく、研究者の端くれとして学術業界で身すぎ世すぎしてきた者として、より深刻な事案だ。

教え子の進路でも老後の費用でもなく、研究室に山積みになっている蔵書のことだ。

きっと同じ悩みを持つ同業者も多いと思うので、人生の一部が詰まった本棚という卒論より難解な課題を、理想的に解決した話を残しておきたい。

いつまでもあると思うな研究室

日常的に目に入ってる研究室の本棚という存在が、いかに有り難いことだったのか、ここに来て気づかされた。

自宅の書斎はすでにいっぱいで、ついつい買い足した本や資料は研究室の本棚に置くようになった。

大学ならばスペースもあるし、講義や研究に使う以外にも、学生たちに閲覧させたり貸出する意味でも置いている意味がある。

学生に貸したままの本が返ってこないこともザラだが、自分も学生時代に教授から所謂「借りパク」をしたままの本も手元に残っており、それもまた学術・教育機関としての機能のひとつだ。

…という自己弁護を引っさげ、とうとう研究室のチェックアウトまで2週間となってしまった。

学生には、時間は有限だ、計画的にやれといつも言っていながら、自分のことになるとこれである。

紺屋の白袴、医者の不養生

古典は覚えるだけではなく、人生で折に触れて指標になるとも言ってきたが、これでは紺屋の白袴だ。

立つ鳥跡を濁さず、諸先輩方に習って自分もきれいに大学を去るつもりだったが、気がつくと朝顔の鉢植えや道具箱を抱えて途方に暮れる計画性のない終業式の小学生のように、本棚を前に呆然としていた

蔵書整理を調べてみた

退官時の蔵書について、先人たちはどうしていたのだろう。今さら直接先輩方に聞くのも気が引けて、検索してみた。

選択肢としてはこのあたりだ。

  • 図書館寄贈
  • 学生に持って行かせる
  • 業者に売る
  • アプリを使う

どれも気がすすまない。

大学に寄贈できるものはするが、私の手元に置いておかねばならないものもある。なので、学生の手に渡るのはまだいいが、古本市場に流通してしまうのはまずい。

もっとも学生もいずれ古本屋に売ってしまうんだろうが。

大山鳴動して鼠一匹

結局、整理できた本は一部だった。

年寄りじみたことを言いたくはないが、自分が学生の頃なら、ゼミの教授の蔵書をもらえるなら、研究室に泊まり込んででも吟味してごっそり頂いただろう。

今の学生には、情報はタダ、ネットのどこかに転がっているという意識があるのか、本に対してハングリーさがない。

住宅事情からすれば、持っていける量も限られているのもわかる。私ですら困っているのだから。でも、違うのだよ、人類はまだあらゆる文字情報をネット上で共有できるまでには至っていないんだ。

研究者であると同時に教育者としても過ごした者として、文字を通じて先人たちが知恵のリレーをしてくれているという重要性を学生に伝えられていなかったのかと無力感に襲われた。

前門の虎、後門の狼

残りは自宅の書斎に…と言いたいところだが、長年の研究生活で、自宅を空けることも多かった私に、家族は冷淡だった。

すでに満杯の本棚はあるが、これ以上の蔵書を持ち込めるスペースはない。

私自身ですら、定年後に家に居続けることに対する家族からのプレッシャーは強く、柄でもないアウトドア系の趣味を試すことになっている。

前門からは研究室の退出期限、後門にはいっさい荷物など増やせない自宅。

学生や職員、家族にも顔に出していないが、なかなかのピンチである。

学生のひとこと「預けちゃったらどうですか?」

思案に暮れていたところ、挨拶に来た女子学生にストレートに聞かれた。

「先生、この大量の本どうするんですか?」

勘の良い学生で、私の課題を一発で見抜いていた。

意外にも人気のなかった蔵書の山が気恥ずかしく、困っていることは学生には隠していたのに。

家族はぜんぶ売り払っちゃえば、と言うが、さすがに学生はある程度この蔵書の価値はわかっている。

彼女は続けて言った。

「預けちゃったらどうですか?」

寄付や売却は試したが、預けるという発想はなかった。

聞けば彼女はいわゆるオタクで、家族に理解されない同人誌などの本を段ボールに詰めて業者に預けているそうだ。

へぇ、最近はそんなサービスをやっている業者があるのか。私が収集している明治〜大正時代の同人誌とは別物なのは知っている。

オタク向けのサービスかと思って話を聞くと、そういうことでもないらしい。

https://book-ocean.com/

サイトを見てみると、体験談の中には私のような教職員で利用している方もいて、親近感が湧いた。

同じ悩みを持つ人というのはいるものだ。

さらに、本の表紙を撮影してWeb本棚にまでしてくれるという。

これは私のような研究者にとってはかなり魅力的だ。

以前、学生のバイトを雇って試したことがあるが、研究の虫で人に指示を出すのが苦手な私には向いていなかった。

このサービスでは、段ボールに詰めて送るだけで、手動で撮影してデータベースにしてくれるそうだ。

惜別の時、段ボール詰め

日頃学生たちには、無用な月額課金サービスなどに入ることは注意している。

バイトを始めて金を使うことを知った若者たちの財布を狙う広告は、古今東西 跋扈している。

初月無料などという甘い言葉に惑わされないよう、と先日も横にいる学生たちを前に口にしたばかりだが…

今はそんなことも言っていられない。

段ボールの購入を決め、今日はこれを教えてくれた学生に日当を払って箱詰めを手伝ってもらっている。

貴重な学術書や資料も多く、できれば重要度や年代で分類したいところだが、彼女によるとその必要もないから、とにかく心を無にして詰め込むことだそうだ。

とはいえ、平安時代の資料と昨年のベストセラーを同じ箱にブチ込むのはさすがに抵抗があるが、横を見ると彼女はそんなことお構いなしに、まるでテトリスでもするように鼻歌交じりで詰め込んでいく。

時折、「先生、これもらっていい?」と、なかなかいい目のつけどころな本をチョイスしては私がうなずくしかできないのをいいことに、自分のトートバッグにも差し込んでゆく。

これまで何度か引っ越しの経験もあるし、紙の本というものがいかに重く、スーパーでもらってきたような野菜の空き箱では底が抜けてしまいかねないのは知っていた。

だが、ブックオーシャンから届いた専用の箱は頑丈で、その心配はなさそうだ。

さらに、定温定湿で保管されるということなので、急いで決めたがその点はいったん安心だ。

さて、気がつくと3時間あまりが経過していた。預けることにしたのは、今すぐ入り用ではないが思い入れがある本。それが段ボール20箱分
他に、馴染みの古本屋に引き取ってもらえるもの。自宅に持ち込むもの。。

残りの10数冊のみ廃棄するという形で、研究室の蔵書は片付いた。

がらんとした自分の縄張りをこうして眺めるとこみあげるものがある。

「先生、バイト代。」

国破れて山河あり…などという感傷は、手伝いの彼女の現金な声に打ち消された。

そうだ、もうここを去らねばならない。

やるべきことの最後の1ピースを終えた。

それから

その後、最終日に退官講義と送別会をつつがなく終え、自室で抜け殻のようになっていると、見慣れぬ宛先からメールが来ていたことに気づいた。

ああそうか、本を預けた業者だ。

あの時は夏休みの宿題状態で、闇雲に契約してしまったんだった。

学生が使っているのだからと、価格もろくに確認してなかった。割高だったら冷静に見直して他の行き先を探さねば。

退官後の最初の仕事とばかりに、メールを開いてみて驚いた。

研究室にあった蔵書が、パソコン画面にきれいに陳列されている。見れば、一冊ずつ写真に撮ってweb本棚に整理されているという。

さらに、本のタイトルと著者名まで入力されているのには驚いた。

かつて、学生にバイト代を払ってやらせていたこともプロに頼む方がやはり早い。

つい、しばらく自分の本棚の旅に浸ってしまった。

これは蔵書を抱える者としてかなり正解なのではないだろうか。

…かなりお高い買い物をしてしまったかな?と思い、引き落とし額を確認してみた。

8000円。

念のため、桁を数えてみたが八千円で間違いなかった。

あの膨大な段ボールの量を考えれば格安だ。

トランクルームはもっと高くつくし、蔵書の購入にかける金額はこんなものではないのだから、学生なら厳しいかもしれないが研究者なら管理にこのくらいの金額をかけてもいいだろう。

とニヤニヤしながら本棚を眺めていたところ、手伝ってくれた学生からLINEが届いた。

「本棚、届きましたか?」

なかなか洒落た言い回しだ。

確かに、段ボールで本を送ったら本棚を届けてもらったようだ。

満足している旨返信しようとしたところ、彼女からweb本棚の写真が届いた

そこには、私の蔵書より膨大と思われる漫画の同人誌とおぼしきモザイクのかかった表紙と、私の本棚から持って行った見覚えのある古典が並んでいた。

「どちらも同人誌ですね📖」

100年以上の時を越えて、情をめぐる人間の営みを文字に著す試みが、液晶の本棚に並んでいる。

長い研究生活のあいだ、若者の流行について無頓着になっていたかもしれない。

もう、教職ではないんだから自由に時間を使うことができる。明治期ばかりでなく、令和の同人誌というのも調査してみるか。本が増えたら、また預ければいい。

こちらは「蔵書管理サービス ブックーオーシャン」利用者の方々にヒアリングを行い、記事として再構築したものになります。

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